内 容(梗概) 

  1996年は賢治生誕百年の年でした。宗教の意味が問われ、また何よりも国や 民族・宗教の違いを越えた新たな思想が求められる今、賢治の思想を振り返り、明 らかにすることは価値あることのように思います。
  賢治の思想の真価は、仏教の根源である人間の精神への信頼を基礎に、人が主体 的に考え、行動することの必要を説き、厳しい現実を見つめながらも、人間の精神 への限りない信頼に立ち、人間の可能性を語りかけていることです。そして、自ら が求めて生きることに生きることの意味を見いだすその爽やかな姿勢です。 

  賢治の思想と生涯を見つめていくとき、人が真剣に考えて生きることの感動があ りますが、また同時に、宗教というものの意味が明らかになります。 

  賢治とトルストイとの出会い、及び、両者の思想の一致点を柱として論を進めて いますが、仏教やキリスト教の教えの本来の意味、さらに宗教とは何かということ がこの論の本当のテーマです。 

   賢治の思想の背景には、清沢満之に代表される明治期の革新的仏教思想がありま すが、宗教の違いにとらわれず、いかに世界を認識し、いかに生きるかという世界 観・人生観として宗教を位置付けた清沢満之の姿勢は、またトルストイの姿勢でも あり、賢治自らの姿勢でもありました。 

  「宗教は思想である」というトルストイの言葉はその他多くの先人の言葉でもあ りますが、貧しさに苦しむ人々を見つめた賢治が、死後の浄土や天上を願うのでは なく、今生きる世界において命あるもの皆の幸福を求めまっすぐに生きていくこと が本来あるべき人の生き方だと考えたことも、彼自身が真剣に考えた果ての結論で した。 

  ヘーゲル哲学と人間の精神への限りない信頼を基礎に人間社会の進化発展を願っ たマルクスの思想は、いつか訪れるだろうこの世の浄土を信じる賢治の思いでもあ りました。 

   賢治が用いる「四次」という言葉は、未来においてはこの現実世界が美しい浄土 と化すだろうという賢治の夢を、時間の上での進化発展というマルクスの思想に重 ねたものであったと言えます。 

 本論は、賢治の思想を追いつつ、『春と修羅』の詩群の意味を解き明かしていく ものですが、意味不明のものとされてきた彼の詩を読み進めるとき、詩集『春と修 羅』が単なる詩ではなく、彼の思想と信仰を伝えようとしたものだったことが明ら かになります。そして、詩集の意図が理解されなかった失意を越えて羅須地人協会 という新たな実践を決意していく過程、羅須地人協会の時期の政治権力との苦闘、 羅須地人協会の活動の後に達した新たな境地等が全て明らかになります。 

   そこに一貫してあるのは、「真理」というものを探究し求めて生きた一人の人間 の姿です。 
  


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