なんでも研究室
アンディ・ウォーホルの

マリリン・モンローを考える



大原美術館のマリリンモンロー
 倉敷の大原美術館に行ってきました。モネやゴーギャン、ルノワールも素晴らしかったのですが、現代美術 も興味深いものがありました。その中にアンディ・ウォーホル(1928-1987)の「マリリン・モンロー」(1967年 91.5×91.5)がありました。

  この絵をずっと見ていて色々なことを見つけました。 



   一つは、この絵のモンローは赤色と緑が基調となっていて、じっと眺めていると補色の関係にあるため 緑の部分の残像は赤に、赤の部分は緑になるため極端に強調された絵になることです。

  もう一つは、ひょっとしてウォーホルはSF作家のように未来の絵の楽しみ方を提示していたのではないかということです。 つまり、コンピュータによる絵の遊びです。ためしにこの絵を画像処理ソフトでいじってみました。赤色で乗算の演算処理をしてみました。 No.1が原画でNo.2,No.3が処理後です。なんとなく普通のモンローが現れました。
 
 

No.1

No.2

No.3

この結果は何を意味するのか、これまたゆっくり調べることにします。

処理した画像と似た絵を見つけました。「オレンジマリリン」でした。これで。くちびるの中央の白いのは、 白い歯であることや左肩の白の部分は髪を結っているスカーフであること、目は開いていてまぶたにシャドーを描いていることなどがわかります。

注意:掲載の画像は著作権法にかかわる可能性があります。現在これも調査中です。
 

時間の流れこそウォーホルのテーマ・なぜマリリンか
 ウォーホルの数々の作品の中には、プリクラの写真のシートのように、また裁断前のお札のシートのように同じ絵が整然と並んでいるものがある。
 しかし、よく見ると、同じラベルを何枚も貼ったかのように見える絵の中の一つ一つの絵は皆、違う。 ある場合はシルクスクリーンという手法のため、絵の具の配合が違っただけの場合もあるが、「210本のコカコーラの瓶」のように210本全部が全部違う絵が刷り込まれている。入っているコーラの量が違ったり、ラベルの向きが違っているのだ。キャンベルスープ缶や当然マリリンもそうだ。
 さて、そうではない絵がある。皆同じように見える。
 それは、「緑色の惨事10回」だ。自動車事故でのクラッシュした車と死者を描いた絵で10のシーンが刷り込まれているが、どれも同じ絵だ。
 これらは、よくいわれる規格化や画一化の表現ではなく、生と死、時間の連続と停止の表現ではないかと思う。
 一つとして、ひとところにとどまるマリリンはいないのである。
 あの絵は動き、変化するマリリンの一瞬の姿だったのだ。
 そしてウォーホルは映画にその表現の手段を選んだ。

 当初、私は、ウォーホルはコピー時代を暗示したと思ったが、それは一面では、当たっていたが他の面ではハズレだった。
 それは、言葉の元の意味はわからないが、コピーはあくまでも複写で、複写を重ねていくと原紙とは微妙に違ったものが出来上がってくる。比較した場合、時間の経過を想起することが出来る。その意味でウォーホルは複写の手法として写真ではなくシルクスクリーンを選んだのだろう。

 これに対し現代のコピーはデジタル化され信号化されて出来上がるものは、いくらコピーを繰り返しても原紙や原画と違うものは無い。ただ、コンピュータで画像を複写中にバグがあり突然違った画像になり、それがすばらしいものが出来ることがある。生物の突然変異もそうだろうか。
 いずれにせよウォーホルは、デジルタル化の時代への暗示まではしていないかもしれない。ただ、まったく同じ絵=時間の停止=死、とすると、デジタル化の世界はあまり良いイメージは無いことになる。
 

ところで、なぜマリリンか?
エルヴィスやリズ、ミックジャガーもいる。私も知っている世界的有名人だ。
商業デザインの逆を行使したのだ。缶のラベルやコマーシャルで商品をアピールしたり売り出すが、ウォーホルは商品=マリリンでラベル=絵を売り出した。
いってみれば清涼飲料水のテレビCMで歌手を売り出すハシリだったのだ。2001/6/24

「210本のコカコーラの瓶」(部分)

 
「200個のキャンベルスープ缶」(部分)

 
「マリリン折り畳み絵」(部分)

 
「緑色の惨事10回」(部分)
 


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