なんでも研究室
兵庫県市川町にある柴田神社とは (2025年6月現在 編集進行 中)
 戦国の武将柴田勝 家を祀った神社として福井にある柴田神社がありますが、じつは兵庫県の市 川町にも柴田神社があります。この神社の由来について調べてみました。

現在の柴田神社


神社の裏手にある乳母ケ井戸
「いちかわ議会だよ り」 に以下のようなことが書かれています。

 坂 戸の柴田神社と乳母ヶ井戸
 今から約四百年前、織田信長の部将の中で勇猛の誉れ高い柴田勝家が、天正十一年(※1)四月湖北、賤が岳の戦いで秀吉軍に敗れ、 本 国越前北の庄で最後の時、孫、 定郡(さだごおり)の乳母オマサがその幼児を 連れ比叡山、書写山と逃れました。
 天正の末、坂戸村の西方井戸 のある所に落ちつき、定郡を育てました。これが柴田研良さんを元とした坂戸、奥の柴田氏の始まりであると言い伝えられています。 今屋敷跡に柴田神社とし て祠られており、毎年四月に祭りが行われています。なお、その古井戸は神社の裏手にあり、神崎郡誌にも記されております。 井戸水は一年中増減がなく、旱 魃時でも豊富に水をたたえ、村人達はこの井戸水で渇をいやしたと言われ、これを「乳母ヶ井戸」と呼びました。 
その後、元和十年(※2)春、御検地改めの際、先祖 の位牌祭祀料として畑並びに池敷を賜わり、これを本家に伝承し、字を乳母垣内と呼ぶ事になったそうです。

(※1)天正11年は1583年 
(※2)元和10年は1624年
出典: (「いちかわ議会だよ り」第30号 1992.11.1 発行市川町議会 編集 広報編集委員会) の「ふるさとの言い伝え」シリーズD

柴田神社の歴史
 現在の柴田神社の場所には古くから祠があり、柴田勝家の孫の定郡(さだごおり)とその乳母のオマサが祀られていました。大正15年2月18日に現在の兵 庫県神崎郡市川町の坂戸と奥を中心とした柴田一族37家がそれまであった先祖を祀った祠と井戸の場所に社を建てました。社の 建立に際し、その場所の1メートルほどの土中に半分に割れた石臼を発見した(3)ので、この石臼は定郡(さだごおり)とその乳母の オマサが使用したものと推察 し、これを社の御神体とすることにしました。なお、言い伝えによれば、この 石臼のもう半分は姫路城の石垣に使われているとされています。
 昭和27年(1952年)に一度改修されましたが、地域一帯の水田の圃場整備(ほじょうせいび)に伴い、地盤をかさ上げし平成2年(1990年)3月に 新たに現在の神社が建てら れました(4)

(3)大正15年3月改 柴田家系統名簿 兵庫県播磨国神崎郡甘地村坂戸 柴田榮三郎記
(4)柴田神社の再建について 63.12.11 柴田研良記
乳母のオマサについ て
 「柴田勝家は木地師を保護し関係が深かったそうで、宍粟郡波賀町鹿伏戸倉の小椋武兵衛太夫の娘のマサまたはマミが勝家の孫の乳母だった。 (5)


(5) 柴田神社 神官武内真氏言説(昭和56年4月11日)




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