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蚯蚓禮讃 (ミミズライサン)

自ら進んで釣魚の餌たる を(=辞、ジ)せざるも 虚名を干支(エト)に列ぬるのを避く「鈍くしておかしげなる」との世評に甘んじ 悠々自適 泥土を食ひ黄泉(コウセン)を飲み 敢て利欲を地表に求めず 汲々(キュウキュウ)相勵(=励)みて荒野を拓(ヒラ)き 矻々(コツコツ)相 勉めて沃土(ヨクド)を作る 其軀(=躯)は蓋(ケダ)し研學(=学)の材たるべく 其屍は猶ほ靈薬(レイヤク)の素たるべし 然れば蔡邕(サイヨウ)の知遇を得て勸 學(=観学)の篇に入り 透谷の詩眼に映じて 影(コン エイ)を紙(シハク)に止む 祖先世に現はれて既に幾億歳 巨象の蹄(ヒズメ)を逸れ氷河の流れを避く 時に 地殻の激震に厄せられ 血縁離散の悲しみに遇ふも 慈雨の降下に恵まれて繁栄の喜びを受く 年を送り歳を迎へて眷 族(ケンゾク)益々蕃(シゲ)く 爭(=争)はず犯さず 倶(ト モ)に天分を樂(=楽)しみ共に苦樂を味ふ 是れ蚯蚓の偉とする所なり 世の(ランラン)憤怨(フンエン)の人 亦以て鑑とするに足らん

昭和六年一月五日

畑井新喜司

【辭 (ジ)】 じする、辞退する。すすめられたことや頼ま れたことを断る。

【虚 名】 事実とは 違っている名目や評判。実際と異 なった悪いうわさ。うそ。きょみょう。

【累】  他の人との関係 で、身に及んできたわざわ い。まきぞえ。

【悠 々自適】 俗世間 のわずらわしさを超越して、心のおも むくままにゆったりと日を過ごすこと。

【黄泉】 地下の泉

【汲々(キュウキュウ)】 熱心にはげんで倦(う)まないさま。

【矻々(コツコツ)】 さぼらず、手を抜かず

【蓋(ケダ)し】 多分。おそらく。たしかに。

霊薬(れいやく) 不可思議なききめのある薬。霊妙な効能のある薬。 神薬。

【蔡邕(サイヨウ)】  中国後漢の文人。字は伯。六経文字を定め、自ら書して碑に刻した。 一時は董卓のもとで、左中郎将となったが、卓の死後、獄に下され、獄中で死んだ。著に「蔡中郎集」など。(一三三〜一九二)

【透谷】きたむら‐とうこく(北村透谷)(一 八六八〜九四)の こと。 詩人、評論家。神奈川県出身。本名、門太郎。島崎藤村らと「文学界」で活躍。近代浪漫主義運動の先駆者。明治24年(一八九一)6月頃、「みみず のうた」を執筆した。

【跟】 かかと

【帠】 きぬ、絹布

【眷族(ケンゾク)】 血のつながっているもの。親族。一族。うか ら。やから。

【蕃(シゲ)く】 数量が多い。たくさんある。豊富である。ま た、豊かである。

【倶(トモ)に、=共に】あるものが、他のものと同じ状態であるさま、 また、他に伴って同じ行為をするさまを表す。いっしょに。同じように。

【懶(ラン)】 ものぐさいこと。

【婪(ラン)】 むさぼり、つつしみがない

【憤怨(フンエン)】 腹を立て、うらむこと

【足らん】 価値がある。

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